どうして自分はこんなにそそっかしいんだろう…

どうしてあの人はいつもあんな風に怒ってばかりなんだ…

なんか、世の中って不公平だなあ…

というように、人間関係や社会生活では不満や愚痴がついついでちゃいますよね。

それ、自分で自分の心を束縛して、ネガティブな考え方をしているってお気づきでしょうか。

でも大丈夫。そんなストレスを減らすための方法があるんです。

それはたったひとつ、考え方を変えることなんです。

ここではそのためのちょっとした考えのヒントをご紹介いたします。

 

自縄自縛とは何か

自縄自縛(じじょうじばく)とは、自分で自分の首を絞めて、アクションや考え方がネガティブになり、生産性もなくなる、というような意味の四字熟語のことです。

また別の言葉で言うと、自分の言動が足かせとなって、本来の自由な活動ができなくなること。自ら定めた決まりで、自分が規制されてしまうこと。ということです。(引用:学研 四字辞典熟語

そうなんです。不自由に感じたりネガティブな感情が出てきたりするのは、まず最初に、自分の言葉や行為によって生まれるんです

 

ということは、自分の思考を逆にポジティブにすれば、不自由やネガティブな感情は出てこない、ということですよね。

では、ポジティブとは何か。それは、不満や愚痴といった否定的なことを言わないで、感謝や喜びといった肯定的(前向きな評価、明るい評価)なことを口にしたり行動に表すことです。

私たちが人生を送っているこの世界では、行動を起こしたり言葉を発すると、まるで懐中電灯を鏡に当てると光が反射するかのように、相手や対象物から応答や反応が返ってきます。
なので、もしも本当に相手や対象物が鏡のような性質をもっていたら、当然のように、ネガティブなことを発すればネガティブなことが返ってきて、逆に、ポジティブなことを発すればポジティブなことが返ってくるのです。

 

世界における見えないルールのひとつは、そういうことだと私は思っています。

とすれば、自分自身もまた相手から見たら「相手」であり「対象物」になりますよね。

そして大事なのは、自分から見た自分もまた相手であり対象物になるのです。

つまりこういうことです。

自分から発信したものの行く先はふたつ。ひとつは相手(対象物)、もうひとつは自分自身です。

ちょっと不思議に思われるかもしれませんが、意外と忘れがちなのが、この自分に言葉や行為が「反射」するということなんです。自業自得とも言えると思います。

なので、ネガティブな感情や行為によっておこる「自縄自縛」をやめるには、まず発信する言葉をなるべくポジティブにする。

すると思考が変わります。思考が変われば、後は自然と行動も変わるものです。

まずは友人や家族に優しい言葉を使ったり、自分を嫌いになって自分を責めるような考え方をやめてみる、ということからスタートしてみましょう。

 

社会とは不自由そのもの

皆さんは社会について理不尽だと思ったことはないですか。私もないことはないですが、特に気にしないで、まあそんなものかとどこかで諦めていました。

そうなんです。社会とは理不尽で不自由なんです。そのように出来ています。

言葉を変えると、私たちはそういう舞台に生まれてきて社会生活をしぶしぶと始めなければならないようになっています

当たり前のことですが、どこかでそんな社会から自由になりたいと思うのも別におかしなことではないのです。

では、社会からは本当に自由になれるのか。答えは「NO」です。なぜなら、私たちより先にこの社会はすでに出来上がっていてルールもあるからです。

その社会のルールを破ったりすると、公序良俗(こうじょりょうぞく)(社会での決められたルール)に反するとして、場合によっては法に裁かれたりすることもあります。

なので、生まれてから少なくとも学生の頃までは嫌でも社会のルールに従って、義務教育をこなしたり受験をしたりといった、「小さな」社会の中に組み込まれることになります。

 

成人になると学校といった舞台が変わり、労働者として社会に所属することが求められることがほとんどです。

問題になるのは、いつ社会に対して不自由や理不尽を個人が思いだすか、ということです。

できるだけ若い時に社会の理不尽などについて考えている人は、比較的社会に対して上手く折り合いをつけながら自由に生きていると思います。

なぜなら社会は理不尽だ、もっと自由に生きたい、ということを考える時間が人より長いからです。

つまり、社会に対して考えることによって、社会に対する自分の考え方が変わった、あるいは社会に価値を見出した、とでも言えるかもしれません。

言葉を変えれば、社会のルールを受け入れた上で、許された範囲の中で自由に生きているということです。

不自由なものは仕方ない、じゃあ別の自由にできることを考えるか、というひとつの「こだわり」を捨てること、といった価値観を変えることに成功している、とも言えるでしょう。

 

個人の自由は幻想なのか

もしも社会にルールや秩序がなく、皆それぞれ好き勝手に生きていたら、社会は崩壊してしまい、社会は成立しないことでしょう。

そもそも社会という舞台セットがあるからある程度自由に生きていけるのです。

それでも不満が出るというのは、もしかしたら人間のエゴとでも言えるかもしれません。

イギリスの産業革命以降、人類は飛躍的に豊かになっていき、今やテクノロジーの進歩によって生活はこれといった不自由もなく、むしろ便利すぎる世の中になっています。

衣食住はもはや先進国に限れば「供給過多」の状態にあり、それでも経済の発展をそれぞれの国が推進して競争しています。

これ以上何を望むのでしょうか。これ以上経済やテクノロジーを発展させてどうするのでしょうか。

確かに、将来医療分野が発展して癌細胞も簡単に治療できるようになったりすれば、人間は病気をひとつ克服した、ということになるでしょう。これは素晴らしいことだと思います。

反対に、軍事産業を拡大するとか、地球環境問題を促進させるような産業はこれ以上発展するべきではないのではと、少なくとも私は思います。

どれも人間の知性エゴがなせるものではないでしょうか

そのエゴを本能のままに主張ばかりしていると、社会ではわがままなやつとして嫌われます。

そうです、社会とは人間関係のことでもあり、人間関係で問題を起こすことの原因は、お互いの主張がかみ合わない時だったりするのです。

だからエゴ、つまり自分本位の考え方ですね、それを知性や理性によってコントロールして振る舞い方を変えると、人間関係でのストレスもずいぶんと減ることでしょう。

人間関係とは様々な人とコミュニケーションをとることであって、そこには自分と考え方の違う人や、なんとなく嫌い人などもたくさんいます。もちろん、友達になれそうな人もいます。

そもそも人間は一人では生きていけなくて、どこかで必ず誰かと接点を保って社会生活をするようにできています。

つまり人間は社会的動物でもあるのです。

なので、不自由=社会=人間関係と言葉を置き換えると、誰もがどこにいても人間関係からは逃れられないとも言えます。

だったら、思い切って人間関係にもまれて、一緒に泣いたり笑ったりしながら人生の時間を共有しようじゃないですか。

個人の自由とはつまり、様々な人間関係の中で獲得するもの、とも言えるのです。人と関わることのストレスをなくすなんてことはできないのです。

そこには、家族をもち、先祖を敬い、地域社会で暮らしながら国と世界の構成員として生きているという事実があります

そういった社会(人間関係、不自由)にいながら、社会の束縛を嫌い、ルールを無視して、これが本当の自由だ、と振る舞うのは間違っています。全然クールではありません。

その意味において個人の自由を実現するなんてことは幻想だ、というのはひとつの考え方としてあると思います。

別の言葉で言えば、個人主義というのは社会という人間の集団では秩序を乱すものとして嫌われる傾向が強いと思います。

少なくとも日本では長らく「家」の制度が社会を支配していたので、そもそも自分のことをひとつの個人として意識することは少なかったのです。

しかし時代は進み、日本は欧米に由来する価値観をどんどん取り入れて、現代は多様性という自由を主張する世の中になってきました。

私がそこで思うのは、果たして個人の自由は人間関係の集団の中で実現できるのか、ひとりひとりが自分の主張ばかりしていたら集団のルールがなくなるのではないのか、ということです。

なので、どこかで人を思いやったり譲ったりするといった謙虚な姿勢が人間関係におけるクッションのような役割を果たしてくると思います

これは道徳的な問題でもあるということです。個人の自由が幻想ではなくなる可能性があるとすれば、それはひとりひとりが思いやりをもって行動するということにならないでしょうか。
そうなれば利己的(自分本位で自分の利益しか求めない態度)というよりは利他的(人の利益のための態度)な振る舞いになってきますよね。
そうです。個人の自由が実現する瞬間とはエゴをコントロールする瞬間ということになるのです。相手が思いやりで気持ちよくなればこちらも嬉しくなりますよね。まさにWINーWINな人間関係になります。
そういったことをふまえた自由な振る舞いというのは、あとは各々の個性に合わせてカスタマイズすることで手に入れることができるでしょう

 

まとめ

社会生活においては、とにかく明るく前向きにいればきっとなるようになっていくのだと思います。

私は、人の思考や気持ちのもちようはそれだけ人生に対して強く影響するのだと思っています。

是非各々の価値観に合った思考をゲットしてください

思考は、知性によって深くなったりしていき、不自由へのまた違った価値を見出してくれるでしょう。

ゆーじゆーじ

自由といってもひとつだけじゃなくて、いろんな段階の自由があるってことかな

自由の神自由の神

そうじゃの、自由も突き詰めて考えていけば自分に新しい視点を与えてくれるということじゃの

ゆーじゆーじ

生死を超越することは自由のなせるものなのかな

自由の神自由の神

そういうのは死んだ後にでも考えればええ。まあ死んでも考えられるかはあの世に行った時に確認するとよいぞ

ゆーじゆーじ

きーびしい(笑)